右も左も分からない
春分から梅雨入りまでの時候を、沖縄ではうりずんという。潤い始め(うるおいぞめ)を語源とする。新緑が芽吹き、草花が蕾を開いて、さわやかな青空に色とりどりの花弁を揺らす。乾いていた大地と心が潤い始める。そんな四月の昼下がり、新患のレントゲン撮影をオーダーすると、一息入れる時間ができた。スマートフォンの電源を入れ、メールをチェックする。当然、私用のメールも含まれるが、多くは仕事がらみの連絡だ。(ということにしておく)いちいちノートブックのコンピュータを立ち上げる必要がなくて助かる。私にとってスマートフォンは必携のデバイスである。天命を知る齢ではあるが、ことIT機器に関しては時代の波に乗っている。乗りまくって調子づき、不要のガジェットを購入しては、細君のひんしゅくを買う。メールのチェックが終わり、最新のニュースを見る。「左右を間違えて手術。医師訴えられる。」ショッキングなニュースが報じられている。
「一流の医師が、そんな基本的な間違いを犯すとは、信じられない」と思った読者は多いだろうが、そう考えた医者はかなり少数だろう。左右の取り違えは、よく遭遇する医療事故のひとつである。そもそも、人体の臓器・器官は左右一対のものが多く、機能的にも同等のことが多い。私の専門とする整形外科も例外ではない。受け持ち患者のケアカンファレンスをする時など、この関節のこの靱帯が損傷を受け、現在の機能障害を呈している。そこで、こういう手術をし、こういう装具を発注し、こういうリハビリを予定している。というプレゼンはすらすらできるのだが、「あれっ?右だったけ、左だったけ」と隣の看護師に尋ねたりする。「先生、しっかりしてください」と笑われるが、笑い事ではない。
「右も左も分からない」を辞書で引いてみると、その土地に不案内であるとか、その分野においてまったく知識がないとある。右、左は最初に判明する、あるいは明らかにすべき基本的な事項ということであろう。左右が出てくる慣用句は多い。「右往左往」、「右翼・左翼」、「左近の桜、右近の橘」、「右の耳から左の耳」、「右と言えば、左」、「右に出るものはいない」、「左うちわ」、数え上げたらきりがない。しかし、基本的には、左右は対極にあり、厳に区別すべきという認識で一致している。いくら、形や機能が酷似していても、左右の取り違えという事態は、一般の方々には到底容認できない初歩的で基本的なミスである。この認識は未来永劫不変であろう。
言うに憚られることであるが、私の娘は左右の判断がすぐには出来ない。「右のものをとって」というと、「右ってどっちだっけ」と言う返事。おちゃらけているのではなく、本当にすぐには分からないという。「こんなの誰に似たんだ!」と怒鳴るまでもない。私に似てしまったのだ。私も左右の即時判断が苦手だ。小学生の頃、全体朝会の「右向けー右」の号令で、左隣の列の人とのお見合いはいつものこと。さすがに高学年になると、あらかじめ右手を握っておき、それに対処したのだが、最初の段階で右手を握るつもりで左手を握っていることがあり、万全の対策ではなかった。昔のことを持ち出すまでもない。現在でも、カーナビに「ここを右折です」と急に言われて、左折してしまうことが何度もある。ゲルストマン症候群のような病的な左右失認とまでは言えなくても、瞬間的に左右の識別が困難になる人は意外と多く、男性の24%、女性の38%に多少なりともその傾向が見られたという報告がある。左右の理論認識は優位半球である左脳の頭頂葉でなされるが、その情報のアウトプットにおいて、右脳がからんでくる右脳型の人に、左右識別困難な人が多いという。私も芸術的な素養があり(きっぱり)、常日頃、右脳型の人間であると自認しているので、この研究結果には首肯すべきものがあると考える。
件の医療事故。左右取り違えての手術は、医師のみならず、手術場にいた全員がその過ちに気づかなかったという事であり、単純明解な過ちこそ、堂々と見過ごされてしまうという、逆説的ピットフォールといえるだろう。しかしその背後には、技術を売ることに重きを置いた医療、時間をかけて熟成されるべき医師・患者関係の希薄さなど、単なる不注意では片付けられないものが潜んでいる気がしてならない。左右認識のおぼつかない私でも、人の命を預かる医者になってからは、左右の別には特に気を遣っているつもりであり、取り違えで医療事故を起こすことは万にひとつもないだろう。そう考えていると、胸ポケットの院内PHSが鳴った。レントゲン技師からだ。少しマニアックな撮影オーダーについての質問だろう。
「はい、もしもし」少しぞんざいに返事をする。恐縮したように技師が言う。
「右手関節でオーダーが出ていますが、患者様が痛がっているのは左なんですけど」
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